闘病記(医師が病に伏して思うこと)第8話

闘病記(医者が病に伏して思うこと)
第8話 治療経過(2)と感謝、たぶん最後の闘病記
いつきクリニック一宮 松下豊顯


早いもので闘病記も第8話を執筆するに至り、ブログに寄稿を始めて半年以上が経過した。多くの患者様や職員の皆様には長きに渡り大変ご迷惑をおかけしたが、私は2022年6月21日より仕事に復帰することが叶った。と言っても火曜日夕診と水曜日午前診の外来2枠のみであるが、それでも闘病記を始めた頃、皆様にお約束したように、約6カ月の治療期間を経て、再び診療に戻ることができたことは、この上ない喜びであり、私の病気のためにご尽力していただいたすべての人々と神に感謝したい。仕事に復帰したため、この闘病記も今回をもって取り敢えず一旦完結とさせていただきたい。
思えば昨年10月に血管内大細胞型B細胞リンパ腫(血管内リンパ腫)を発症し、2022年4月17日で約半年間の化学療法が終了した。5月にPET-CTなどの検査を行い、寛解と判定されたため、6月21日から職場に復帰した。発病から今日まで、長かったようでもあり、短くも感じる半年余りの期間であった。手足の痺れと、それに続く倦怠感で発症し、一日一日自分の身体が衰弱していく速さに死の予感さえ感じながら、自由の利かない身体を病床に横たえ、色々思いを巡らしていた時期が遠い昔のようにも感じる。今となっては発病当初の苦しい病床生活も少しずつ記憶から遠ざかっていくのを感じるが、闘病記初期の原稿を読み返すと、当時の記憶がよみがえる。執筆当初は闘病記録を残すことに戸惑いもあったが、今となっては闘病記録を残しておいて良かったと思っている。闘病記第3話、治療経過(1)ではおよそ2021年年末までの治療経過をお話しした。今回は2022年1月以降の治療経過を前半で述べ、後半では闘病生活全体を振り返って、今私が感じていることをお話しして闘病記を閉じたい。

【治療経過(2)】
さて治療経過の続きである。本闘病記では、初期の診断や治療経過の記載は医学専門用語が多く、一般の読者には分かり難い点があったことをお詫び申し上げたい。ただ、自らこの希少疾患の患者になった運命上、病気に関する詳細な記録を残しておくことも医師としての義務(あるいは医師の性)と考えてのこととお許し願いたい。また本闘病記では「化学療法」と「抗がん剤療法」を敢えて使い分けた。「化学療法」は広い意味で悪性腫瘍に対する薬物治療全般を表す言葉だ。私が受けた化学療法は6種類の薬剤を使用したが「リツキサン」以外はすべて所謂古典的な抗がん剤だ。私が医師になった40年前にすでに抗がん剤として現役で治療に使われていた薬剤だ。人間の身体は常に古い細胞が新しい細胞に置き換わる新陳代謝を行っている。そのため細胞分裂(1つの細胞から新しい2つの細胞に増殖すること)を繰り返す。古典的な抗がん剤は細胞分裂期に細胞障害を与え、死滅させる薬剤である。がん細胞は細胞分裂を頻回に繰り返し、抗がん剤がより効果を発揮する。しかしがん細胞だけではなく正常の細胞も障害を受ける。特に造血細胞、消化管粘膜細胞、毛根細胞など新陳代謝の著しい細胞ほど障害される。現在臨床で使われている抗がん剤はすべて1980年代以前に開発された薬剤だ。医学の進歩により悪性腫瘍(がん)は何らかの原因で遺伝子に障害が起こり、細胞分裂が制御できなくなり発症することが解明された。そのため1980年代以降は、がん細胞に特異的に作用する薬剤の開発が主流となり、古典的な抗がん剤が新たに開発されることはなくなった。私の治療で使用された抗がん剤もすべて長い歴史のある薬ばかりだ。
さて私の治療経過に話を戻すと、2021年年末までR-CHOPと呼ばれる化学療法を3クール終了した(闘病記第3話参照)。血管内リンパ腫は脳神経系への浸潤が比較的みられるため、脳神経系への薬剤移行に優れたメソトレキセートを加えた治療プロトコールが施行される。私も2022年1月4日より約1カ月の入院でメソトレキセートの大量点滴療法を2周間隔で2回受けた。メソトレキセートを大量に点滴静注することで、脳神経細胞に十分薬を移行させた後、多量の点滴と飲水により、できるだけ早く薬を尿中に排泄させる治療である。メソトレキセート血中濃度が高いままだと肝臓や腎臓に障害が及ぶため、治療から5日間は血中薬物濃度測定と1日2回の尿PH測定(尿が酸性に傾くと薬の排泄が悪くなるため、定期的に酸・アルカリを測定し補正する)、そして排尿の度に尿量測定を行う。これがなかなか大変であった。昼夜問わず大量の補液のため、深夜も1時間おきにトイレに行き、尿量を自分で計測記録することが5日間も続くのはかなり辛い作業であった。ただ毎日の採血がCVポートから施行され、血管に注射針を刺されることがなかったのは有難かった。2周間隔で同じ治療を2回繰り返し、1月下旬に退院した。退院後は再び外来でR-CHOP(7、8クール目はメソトレキセートの髄注も)治療を3週間の間隔で3回繰り返した。化学療法の翌日にメソトレキセートの髄注を施行し、翌々日にG-CSF製剤(白血球を増やす薬剤)の皮下注射を施行。その2週間後の血液検査に問題がなければ、次の化学療法を繰り返し、2022年4月17日に約半年間の治療が終了した。化学療法が始まった頃は今年春頃には元気になっているつもりであったが、強い抗がん剤を半年に渡り繰り返す治療はやはり身体にかなり影響し、特に今年になって化学療法の度に体力が落ちていくのを感じた。長時間の激しい肉体労働後のような全身のだるさと脱力感に悩まされ、活動能力はかなり低下した。手足の痺れと左足運動障害のため歩行にも苦労し、お箸の扱いや、書字、ボタン掛けにも悪戦苦闘している。化学療法が終了した今、薬の影響が徐々に体から抜け、このような身体の状態が徐々に改善に向かってくれることを願うばかりである。現在この原稿を執筆している時点で、体力的には発病前の4-5割程度といった感覚である。幸い、気力は発病前とほとんど変わりなく、化学療法の結果、寛解状態と判定されたので何とか診療に復帰することができた。

【闘病生活を振り返って】
「血管内リンパ腫」は微小血管内で増殖する珍しいタイプのリンパ腫であり、どうしてこのような場所で増殖するのか不思議な性質だと思う。この疾患は不明熱の鑑別診断として名前が挙がるほど、最近では認知度も高いようだ(私は知らなかったが・・・)。しかし疑うことは容易でも、診断を確定することは容易ではない疾患とも言える。
発病初期の倦怠感と病勢の進行の速さには驚かされた。発病から僅か10日余りの短期間に絶望的な倦怠感でほぼ寝たきり状態となり、輸血が必要になるまで貧血は進行し、死が頭をよぎった。そして治療が始まると、見る見る倦怠感が消えていく劇的な変化にも驚いた。現在、仕事に復帰できるまでとりあえず回復できたことは喜ばしい限りだが、必ずしも病気が治癒したわけではなく、再発する可能性を常に考えながら生きている。また回復したと言っても、四肢の痺れ、知覚障害、歩行障害が残っており、特に歩くという基本動作が上手くできないだけで身体的パフォーマンスが著しく損なわれた実感が強い。また、抗体を産生するBリンパ球の悪性腫瘍であると同時に、治療で6カ月以上投与を続けたリツキサンはBリンパ球に障害を与え、治療終了後も6カ月以上は作用が持続すると言う。そのため免疫力低下による感染リスクを常に心配しながらの生活である。ワクチン接種をしても十分抗体ができないと考えられ、新型コロナウイルスが問題となっている今日、診療に復帰はしたが自身の感染リスクを心配しながらの日々診療している。このように体力も万全ではない状態ではあるが、今与えられた状況の中で何とかがんばって前に進んでいくしかないと考えている。
今回は闘病生活を通して様々な体験をした。多くの先生方や看護師、医療スタッフの努力と家族や多くの人々の支えのおかげでここまで回復できたことは、ほんとうに感謝してもしきれない気持である。そして今後病気の経過が良くても、悪くてもその結果はすべて自分が引き受ければいいことだとも思っている。これは自分の病気であるのだから。
今回このような苦しい闘病生活を経験し、もう一つ自分に変化が起きたことは、縁あって私が知り合った全ての人々の健康と幸せを心から願うようになったことだ。
半年以上に渡り、私の闘病記に目を通してくださった皆様に感謝と、これが最後の闘病記であることを願いつつ稿を閉じさせていただきたい。
ありがとうございました。
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闘病記(医師が病に伏して思うこと)第7話

闘病記(医者が病に伏して思うこと)
第7話 死生観(2)
いつきクリニック一宮 松下豊顯


死生観の続きである。この原稿を執筆している時点で、ロシアのウクライナ侵攻により街が破壊されていく様子や多くの一般市民が犠牲になっていく姿が連日のように報道されている。一方2019年12月より始まったコロナ禍は終息に向かいつつあるとは言え、日本も含め世界中で多くの人々が犠牲になった。取り分け私が心を痛めるのは、コロナ禍以降、亡くなられる人は家族にも看取られることなく孤独に死んでいくということだ。人生の最後にしてあまりにもむごい仕打ちだと思う・・・。東日本大震災から11年が経過した。日本では地震や豪雨など自然災害でも多くの命が奪われる。病気や事故、自然災害、戦争などのため人々は死んでいく。
最近つくづく思うことは、人の死はしばしば突然にやって来るということだ。今朝、当たり前のように太陽がのぼり、そして明日の朝も同じように夜が明けると思っていた。しかし彼ら、彼女らは二度と日の光を見ることはなかった。
昨年10月に私が発病した当初、あまりの病勢の速さに一時期は死を意識した。また病気で苦しみ1カ月以上病床から動けなかった時期、そして四肢のしびれや知覚障害、左足の運動麻痺に苦しめられている今を通して思うことは、当たり前と思っていた日常は当たり前ではなかったと言うことだ。健康を失った時、健康であることすら意識せず、当たり前のように生活していた一日が、大袈裟と思われるかもしれないが、まるで奇跡のような一日であったのだと感じる。普通に歩いたり走ったりしていた頃は自由に活動できる自分が当たり前で、自分の身体に感謝することなど思いも及ばなかった。失って初めて当たり前の日常がいかに貴重な時間であったかに気付く。ある日ウクライナのマリウポリ製鉄所地下壕で1カ月余りの生活を強いられた一般市民ご婦人の言葉をニュースで聞いた。今一番望むことを問われ、「外の空気を思い切り吸って、温かい紅茶を飲みたい。当たり前すぎて、そんなことかと思われるわね。」と答えた。それを聞いた時、彼女の気持ちが痛いほど理解できた。
5年前に妻を亡くした後、心にポッカリ空洞のできた日々が続いた。妻がいて当たり前と思っていた日常が当たり前ではなかったことに気付いた。この時、自分はまだ元気で生活できていると思った瞬間、当たり前のように生活できていることに感謝の気持ちが湧いてきた。このような平凡で退屈な日々を有り難いと思い、ずっと続いてほしいと神に祈った。その5年後、人生で初めての大病、入院を経験し、今も病気の影響で四肢の症状に悩まされている。残念ながら病気の苦しみも経験し、平凡な日常生活も継続できない結果になってしまった。しかしそれでも神に感謝している。闘病生活を経験することにより平凡で普通の日常生活の繰り返しがいかに幸せであったかと言うことをより深く理解することができた。
死生観を語ることは幸せな人生とは何かについて考えることでもある。誰が見ても羨ましい人生を送っていても、自らを幸福と感じない人もいれば、決して幸福とは思えない人生の中にも幸せを見出す人もいる。人生の価値観や幸福の尺度は人様々であり、ここではどのような人生を生きるべきについて語るつもりはない。ただどのような人生を送ろうとも死の瞬間に「それでも自分が生きてきた人生には意味があった」と納得して死ねる人は幸せな人生を生きた人であると私は思う。そして生涯自分の幸福のみを追求する人生を送ってきた人は死ぬ瞬間に心空しく感じるのでないかとも思う。社会や人々のために貢献する人生など大それた目標を掲げる必要はない。自分が生きてきたことにより、たった一人でも誰かに心の安らぎや幸せを分け与えることができたと思える人は幸せな最後を迎えるのではないだろうか。
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闘病記 (医師が病に伏して思うこと) 第6話

闘病記(医者が病に伏して思うこと)
                第6話 死生観(1)                                                         いつきクリニック一宮 松下豊顯


人間、自らの死や生について考えることなど、身近な人の死や自身が大病、大事故に遭遇しない限り、日常生活でほとんどないと思う。私自身は職業上、人の生死にかかわる機会が多いこともあり、死や生き方について考える機会は一般の人々より多かったと思う。
私は5年前に妻を病気で亡くし、今は自らが病に伏して闘病生活を余儀なくされている。病に苦しんでいる時は誰しも、他に何も望まないから今の苦しみから解放されたいと願うし、今までの自分の生き方、これからの生き方に思いを巡らす。妻を看取った時、死と生と今後の人生について考えた。そしてこの度、自身の大病により再び自らの人生を考える機会が与えられた。
ここで改めて「死と生」について語る。妻が亡くなった半年後に岐阜県医師会報(2018年1月号)に私が寄稿した当時の文章「妻を亡くして思うこと」を振り返りつつ、闘病を経た現在の死生観、健康や幸せについて触れてみたい。                 

     妻を亡くして思うこと

心底悲しくて泣いたのは何十年ぶりだろう。昨年 6 月 に妻は逝った。半年たった今でも食卓の向こうにいた妻を思い出すと淋しくなる。月命日に墓前に花を手向けに行くたびに、妻を葬る場所を探し求めてここに来たことを思い出し涙が溢れる。妻は平成14年、肺癌の手術を受けた。進行癌であり長生きできないと諦めていた。
しかし奇跡的に15年間という長い時間を生きることができた。同時にそれは長い闘病の日々であった。安定していた時期は、このまま天寿 を全うするのではという錯覚までいだいた。
しかしゆっくりとその時は訪れた。妻が亡くなる数か月間、そして四十九日が過ぎるまでは私の人生で最も濃密な時間で あった。いよいよ妻の死期が近づいていると悟った時、一日中絶えることのない咳と息切れのため、妻は苦しんでいた。この頃から台所に立てなくなった妻の代わりに私がすべての家事を引き受けることになった。
玉ねぎの皮さえ剥いたことのない私が、妻に教わりながら不器用にも二人分の料理を準備する日々が始まった。診療の合間、昼休みに家に戻っては夕食の準備をし、また診療に戻る日々が過ぎた。その間も妻の病状は進行し、4月半ばに呼吸困難のため緊急入院した。生きて我が家に戻れないという気持ちがよぎった。妻の病状を気遣いながらも、葬儀やお墓のこと、死後に待ち受けている様々な手続きなど頭の中を駆け巡り、真っ白になった。幸い懸命な治療のおかげで、病状は持ち直し2週間後に退院することができた。
しかし早晩再入院になることは容易に理解できた。妻が少しでも動けるうちに私にはやるべきことが山ほどあった。子どもたちに迷惑をかけないよう、死んだ時は共に永代供養を受けようと話し合っていた、が具体的には何も決めていなかった。何処で永代供養をお願いすべきか思い悩んだ挙句、縁あってある場所に辿り着いた。息も絶え絶えにゆっくり坂道を歩く妻の体を支えながら、墓石が並ぶ埋葬の地をしばらく眺め、妻は「ここでいい」と言った。
秋には長男が結婚式を挙げる予定であった。妻の病状が秋まで持たないことは明らかで、 6月中旬に両家の家族8人だけの結婚式を挙げることにした。酸素吸入しながら車いすの参加でも何とか息子の結婚式を見せてやりたいと強く願ったが、5月半ばには安静時にも酸素が必要な状況となった。在宅酸素が始まり、介護ベッドの準備のため、仕事の合間をぬって市役所や地域包括支援センターなどを走り回った。どの人も迅速かつ親切に対応 していただき、本当に感謝に堪えない思いであった。少しでも長く自宅で過ごせるように、私が思いつくことはすべて行った。
しかし努力も虚しく、6月初めに妻は再入院した。これが最後の入院だと思った。付き切りの看病も虚しく、日に日に病状は悪化し、何とか結婚式を見届けさせてやりたいという家族の願いは届かなかった。妻のいない7人だけの結婚式を終えた私たちは、病床で苦しむ妻に報告した。妻は喜び、息子の手を握った。そして2日後、妻は帰らぬ人となった。妻の死後、四十九日までの間は時間の感覚が麻痺するくらい慌ただしい日々が過ぎた。今は当時の濃密な時間を冷静に振り返ることができる。今まで私は葬式もお墓も仏壇も必要ないと思っていた。しかし妻の死を境にその考えは間違いではなかったかと思い始めている。妻の死後仏壇に花を切らしたことはないし、月命日には墓前にも花を手向ける。そうすることで自分の心も安らぐことに気付いた。お墓も仏壇も故人の為のみならず、残された家族の為のものでもあると思うようになった。妻の死に際し、できる限りのことをしたつもりであったが、一つだけ今も後悔していることがある。死の3日前、せん妄に陥った妻が「家に帰る」と言ってベッドから立ち上がろうとする。なだめては寝かせることを何度も繰り返すうち、「今度家に帰る時は死んだ時だ」とつい言ってしまった。妻は一瞬悲しそうな表情をし、起き上がろうとはしなくなった。「早く一緒に帰ろう」と言ってやれば良かったのに、なんでこんなひどいことを言ってしまったのかと、今でも思い出すたび慙愧に堪えず涙する。 今は家に帰っても一人ぼっち、いや、生前妻がかわいがっていたチワワと二人ぼっちだ。そんな犬の世話が今では癒しにもなっている。妻に教えてもらったおかげで、レシピをみながら、下手くそながら自分で調理もするようになった。還暦を迎える年を一人で生きることに不安もある。朝目覚めた時、無事に朝を迎えられたことを神に感謝する。今より健康になろうと思わない。病気の苦しみさえなければ。今より幸せになりたいと思わない。不幸でさえなければ。妻を亡くして、生きることにより謙虚になった。

20220411-1




(この文章は2018年1月、岐阜県医師会報に掲載したものである)

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闘病記 (医師が病に伏して思うこと) 第5話

闘病記(医者が病に伏して思うこと)
第5話 闘病生活がなければ気付かなかったこと
いつきクリニック一宮 松下豊顯

半年に渡る化学療法も残り3分の1に差し掛かる現在、抗がん剤の蓄積の影響か、身体的にかなり辛い状態が続いている。治療初期には感じなかった筋肉のだるさ、脱力のため、立ち上がったり、歩いたりすることも苦労している。まるで自分の身体がロボットのようで、心身一体感を失ってしまった。つくづく抗がん剤は身体に毒であることを実感する。
病気の経過については改めて述べるが、闘病生活がなければ自分が気付かなかったことをいくつか今回はお話ししたい。

【バリアフリー】
長く苦しめられた倦怠感から解放され、今は抗腫瘍薬の副作用と付き合っていく日々だけと言いたいところであるが、倦怠感が改善した後は、手足の痺れと左足の運動障害が最大の悩みの種となった。
病床と室内トイレの移動以外は寝たきり状態が長く続き、廊下歩行を再開したのは退院1週間前からであった。この頃は両側手指の痺れと左足の痺れで運動機能障害はないと考えていた。入院時の脳神経内科診察でも運動機能は正常であり、廊下歩行を再開した時、左下肢が歩きづらいのは痺れのためと思っていた。
しかし退院後も左足の歩行障害が持続するため、詳しく観察したところ、左腓骨神経麻痺と思われる左足関節背屈障害(爪先を上に向けるような足首の運動ができない状態)に気付いた。普通に歩行している時は、爪先で地面をけり出し、踵から着地する。
無意識にこれを交互に繰り返すことでスムーズな歩行が可能となる。背屈障害があると踵から着地することができず、足底を水平に着地させることになる。また、爪先が下垂するため、僅かな地表の凹凸でつまずきやすくなる。それを避けるため歩行時に病側の足を反射的に高く上げて歩こうとする(鶏歩)。
現在リハビリ中であるが状態は改善していない。歩行に時間がかかり、左足の痺れのためバランスも崩しやすく、特に階段昇降が不安定である。
健康な時は手すりのありがたみを実感することなどなかったが、自ら歩行障害を持つようになり、初めて手すりなどの補助用具がありがたいと思うようになった。手すりのない階段では壁に手を添えて昇降するだけでも助けになる。手すりがあるだけでかなり安心して昇降できる。歩行障害にとって手の補助がどれだけ重要かということを心底理解した。
自らが身体障害を体現するようになって初めて障害者の気持ちを共有できる入口に立った気がする。電車に乗る時は乗り継ぎ時間に注意するようになった。乗る車両もエレベーターやエスカレーターに近い車両を調べて乗るようになった。
今日までは駅のエレベーターを利用することはなかったが、今ではエレベーターのありがたみをしみじみ感じる。そしてエレベーターは本当にそれを必要とする人々(身体障害者や高齢者、妊婦など)のために出来る限り空けておいてあげるべきだと切に思う。元気な若者は便利だから、楽だからという理由だけで駅のエレベーターは使うべきでないと真剣に願うようになった。周りに人がいなくても、一生懸命それを必要とし、辿り着くため苦労しながら向かってくる人がいるのである。そのような人々は移動に時間がかかるので、エレベーター待ちをしている間に目的の電車に乗れないことが容易に起こる。私自身も以前のように走ることができれば、乗り継ぎ時間やエレベーターの場所を気にせず移動できたのにと思うことばかりである。
障害には様々な種類がある。自分はまだ歩行障害のことが少しわかっただけである。その他様々な障害には障害の数とその重症度に応じた悩みや苦しみが存在する。できるだけ様々な障害に対して共感できればと思うようになった。
バリアフリーは単に障害者が日常生活で困らないためのハードの問題ではなく、様々な気配りを絶やさない人々の気持ちがより重要と思うようになった。歩いていると進路を譲ってくださる見知らぬ人々に感謝。

【病床マット】
この度の病気で私は1カ月以上の長期に渡りほとんどの時間を病床で過ごした。病初期には長期間の臥床による身体への影響など考える余裕はなかったが、治療が始まり倦怠感が改善し、精神的にもゆとりが出始めた頃、初めて長期臥床していたにもかかわらず全く身体的なストレスを感じていないことに気が付いた。
最初に病床に寝た時はやや硬いと感じた。しかし寝返りなど体位変換に全くストレスを感じなかった。
私が勤務医時代の頃は、長期臥床による腰痛や床ずれなどがしばしば問題になっていた。近年はそのような問題を耳にする機会は減った。技術の進歩により病床マットの性能が格段に向上したおかげであろうか。最初硬いと感じたマットも体位変換にストレスない程度の硬さを保ちつつ、適度な沈み込みによる体圧分散を確保しているのであろう。
シーツ交換時にマットを見て、その薄さにさらに驚いた。後日看護師に使用しているマットについて質問したところ、マットには高反発面と低反発面があり、自分が使用しているマットは高反発面を上にして使用しているとのことであった。
2022年1月4日、化学療法のため2回目の入院時のことである。2日目の夜、身の置き所がない腹部不快症状のため一晩中寝返りを繰り返していた。あまりにも寝返りに体力を使い、疲れ果てたので原因を考えたところ、自分の身体がマットに沈み込みすぎ、寝返りが困難になっていることに気付いた。てっきり病床マットの裏表が前回とは逆で低反発面が上になっていると考えた。
シーツ交換の日、マットの裏表を逆にしてもらおうと相談していたら、マットを見て驚いた。前回入院時と全く別のマットであった。恐らく寝たきり状態に対応した褥瘡予防マットではないかと思われた。体位変換が可能な人間が、身体が沈み込む低反発マットに寝ることがどれだけ身体に負担がかかるのか初めて体験した。
その後、前回使用したのと同じマットに交換していただき、以後快適な入院生活を過ごした。患者様の病態に適したマットの選択がいかに重要かということも身をもって体験した。

【アドリアマイシン】
現在私が受けている治療の中にアドリアマイシンという抗がん剤が含まれている。今回使用する様々な薬の中でもひときわ綺麗なオレンジ色をした薬だ。まるでオレンジジュースを点滴しているような錯覚に陥る。アドリアマイシンは原末も綺麗なオレンジ色をしている。入院中、初めてアドリアマイシンの点滴を受けた時非常に奇妙で感慨深い気持ちになった。
アドリアマイシンは歴史の長い、古典的な抗がん剤であるが、現在も現役の治療薬として活躍している。累積使用量がある一定のレベルを超えると副作用として心筋毒性が出現することでも有名だ。
今から30年近く前、私はアドリアマイシンの急性心筋毒性について研究していた。モルモット左室乳頭筋の活動電位と張力を様々な刺激条件で観察し、アドリアマイシンの心筋に対する急性作用を調べていた。前述の通りアドリアマイシンは原末から綺麗なオレンジ色で溶解液もオレンジジュースのようだ。実体顕微鏡で乳頭筋を眺めていると、やがてオレンジ色液体が流れてきてまるで夕焼けを見ているような錯覚に陥る。来る日も来る日もオレンジ色の液体を眺めながら2年間という時間を過ごした。その同じ液体が今は点滴ルートを通り、自分の体内に流れ込もうとしている。
30年前の研究室での光景が目の前に重なり、何とも不思議な感覚に捕らわれた。この日は4種類の薬を点滴したが、アドリアマイシンだけは最初から最後のオレンジがルートから消えるまで見つめていた。


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闘病記 (医師が病に伏して思うこと) 第4話


      闘病記(医者が病に伏して思うこと)
      第4話 倦怠感
                いつきクリニック一宮 松下豊顯


今回は私を悩ませ続けた倦怠感を掘り下げてみたい。
最初は疲労の蓄積かと思っていたが、一日毎に症状が悪化する、そのスピードに驚かされた。前日に頑張って出来たことが翌日には出来ないことの繰り返し。僅か一週間で起きて活動することが困難な状態に至った。今まで自分が倦怠感と感じていたものとは別次元の状態であると思った。
入院後も倦怠感は進行し続け、病室内のトイレに何とか自力で移動する以外は終日病床に伏せる状態となった。トイレも立って用を足すことができず、検査の移動は車いすのお世話になったが、乗り降りも辛く感じた。
最終的にあらゆる重力に逆らう動きが辛くなり、病床で寝返りをうつことさえ困難と感じた。終日病床の天井を眺めながら、この絶望的な倦怠感とはいったい何者なのか考えながら過ごす日々が続いた。

この倦怠感をどのように表現すれば人に伝わるのであろうか。
倦怠感を別の表現に置き換えたらどうなるかを最初に考えた。「(身体の)だるさ」、「疲労感」、「脱力感」、「意欲低下」、「衰弱」等々いくつかの単語が頭に浮かんだが、そのどれもが今の状態を表す言葉ではないと思った。
しばしば、医療の現場では「倦怠感」と並列に「だるさ」、「疲労感」、「脱力感」などの用語が使用される。改めて「だるさ」、「疲労感」、「脱力感」の用語を考えた時、これらは主に筋肉の疲労や障害、筋力低下に由来する表現として適しているように思えた。
化学療法を何回か経験した後、抗腫瘍薬投与後の身体症状を表現するのに最も適した表現が「だるさ」、「疲労感」、「脱力感」であると感じた。
私の倦怠感も病初期の頃であれば、このような表現が当てはまったかもしれないが、最終的に絶望的な倦怠感と自ら言わざるを得ない状態は「だるさ」、「疲労感」、「脱力感」では決して置き換えることができないと思った。
今回の極限状態を一言で言い表すのに「倦怠感」以外に同義語が思い浮かばない。
では絶望的な倦怠感と真逆の状態はどのように表現されるのか。そして、その表現を否定することで「倦怠感」という言葉を新たに定義しようと考えた。
今の自分の状態と正反対の状態を思い浮かべた時、「希望」、「活力」、「生命力」、「気力」、「活動」、「躍動」、「高揚感」、「充実感」などの言葉が次から次へと思い浮かんだ。すべて今の自分から失われたものだと感じた。同時に早くもう一度このような状態に戻りたいと思った。そして自分なりに創造した倦怠感の定義。「倦怠感」とは「生きる希望をなくすこと」であった。
まさに今の自分を表現するのにピッタリの定義だと自虐的に納得した。生きる希望をなくし、ただ病床で天井を眺めるのみ。

「生きる希望をなくすこと」といえば、「自死」「自殺企図」などを連想する人がいるかもしれないが、全然違う。自死を考えるには大きなエネルギー(活力)が必要だ。しかも負のエネルギーである。実行するにはさらに大きな負のエネルギーがないと無理だ。絶望的な倦怠感は正も負も、エネルギーが全くない状態に近く、「自死」を考える気力さえない状態と言える。
ついでに言えば、「自分の意志や力で誕生したわけではない命は、自分の意志や力で消滅させてはならない」と私は考えている。

改めて「倦怠感」という言葉を深く考えてみた。私が病に伏した最大の症状であり、最終的に自ら「絶望的な倦怠感」と表現せざるを得ない状況に陥った時、「生きる希望をなくしかけていた」のかもしれない。治療により劇的に倦怠感が消えていく身体の変化も体験し、「倦怠感」と表現せざるを得ないものの実態は何であるのか不思議な興味を抱いた。
医学的には増殖したリンパ腫細胞から放出される多量のサイトカイン(主に免疫細胞から分泌され、生理活性を有する蛋白質)によって引き起こされる身体の反応と考えられるが、今まで自分が日常臨床で使用していた「倦怠感」の意味を超えて深く考える機会でもあった。

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プロフィール

いつきクリニック一宮

Author:いつきクリニック一宮
〒491-0932
愛知県一宮市大和町毛受字辻畑47-1

TEL (0586)47-7005
Fax (0586)47-7627
URL https://www.ituki.com/ichinomiya/


内科・小児科・循環器科
皮膚科・透析センター

「日々のちょっとしたニュース」・「イベント情報」・「医療情報」・
「患者様からの貴重なご意見」等様々な内容で更新しています。

また、当院医師による「闘病記」、「仏の雫」も好評ですので、
カテゴリより是非ご覧ください。

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